国家神道への道
神仏習介の神社であった京都の祇園社、石清水八幡宮、愛宕大権現はそれぞれ八坂神社、男山神社、愛宕神社に改称させられた(男
山神社はその後ふたたび石清水八幡宮に改称。興福寺では全僧侶が還俗して配下の春日神社(春日大社)の神職となったほどであった。
それまで神職の地位は社僧よりも低かったのであるが、立場が逆転して。社僧は歴史の舞台から抹殺された。このことは旧幕府の権力と密接に結びついていた仏教勢力を解体させることにもなった。
1869年(明治2年)、古代国家の祭典で中心的な役割を果たしていた神祇官制度が約1000年ぶりに復活した。翌年には大教宣布の詔が出された。こうした一連の動きは近代天皇制国家の幕開けとも呼ぶ
べきものであった。
国家神道の確立化へ向けた政策は、その陂も衿々と進められることになる。国家の管理のもとで、天皇の祖神とされる天照大神を祀る伊勢神宮が、全国の神社の最高位に位置づけられた。全国の神社は伊勢神宮を頂点に、れぞれ社格というランクがつけられた。